音楽の仕事についての寄稿

専門誌「音楽の世界」にクラシック音楽の仕事とこれからというタイトルで寄稿しました。

音楽の仕事というものがどんなものなのかということを歴史的な経緯も踏まえて考えてみた文章です。4000字程の少し長いものですが仕事を考える土台のようなものとして捉えています。(画像の下に本文掲載してあります)

クラシック音楽の仕事とこれから

音楽家の仕事の形を考える

一昨年来のコロナ禍において、音楽家・演奏家の仕事のスタイルの変化が問われている。コンサートも開催しにくい状況で、動画を活用した演奏活動や、オンラインでのレッスンなど皆が工夫を重ねている状況が続いている。また、音楽を仕事とすること自体の困難さも相まって非常に難しい局面である。そもそもなぜ音楽と仕事が結びつきにくいのか、今までの音楽家の仕事の流れから仕事の形態の分析、現在の状況、そして今後の展望をクラシックの演奏者としての立場から考えてみたいと思う。

音楽と仕事に関する3つの側面

音楽は文化であり、娯楽であり、実用である。音楽と仕事のつながりを考察するにあたり、整理するためにこの3つの観点に分けて考えてみたい。音楽を文化ととらえるというのは、例えばそれぞれの国に言葉、建築、衣服、料理など特有のものがありそれを文化と言う様なことと同義である。娯楽というのは、文字通り楽しむためのものとしての捉え方。実用という側面は例えば冠婚葬祭の時に必要な音楽や、軍隊で使われる行進の曲。映画の音楽なども音楽単体で考えれば映像の雰囲気の効果を増すために使われていることからここに分類できる。

この中で文化的側面の割合が多いと国や企業から保護やサポートを受ける対象となり、娯楽的側面が優勢だと芸術家的または商業的になる。そして実用的側面の割合が増えると依頼主から必要に応じて仕事を受ける形となる。もちろん3つの側面は互いに重複していて、どれかだけになるということはなく、どの側面が比較的多く見られるかということである。

この3つの側面からまずは歴史的に音楽家がどのような役割を果たしてきたか見てみたい。

職人=実用的音楽家

古くは教会が音楽家を雇っていた。バッハを例に挙げれば、彼は教会でオルガンを演奏し、教会暦に沿って膨大な量の素晴らしい作品を残した。世俗的な方向では、宮廷や貴族が音楽家を雇い、大規模なオーケストラもあった。ハイドンなどは、実務まで引き受ける職人的音楽家としてエスターハージィ公の元で活躍した。

教会の場合は祈りのための音楽が必要であり、宮廷などの場合、晩餐や冠婚葬祭などそれぞれにイベントに合わせて曲が必要であった。立派な音楽で人を驚かせ自らの権力誇示をするという目的の場合もあったであろうが、どちらにしても音楽の実用的な側面が強調されていたといえよう。この時代の音楽家は使用人的な扱いであったと言われており、現在ではそれが否定的な文脈で使われることもあるが、それは音楽が毎日の掃除や料理を作ることと同様に実用的であったからこそである。

弱まる実用性=娯楽的な音楽

ベートーヴェンあたりは職人的音楽家から、アーティスト的(芸術家的)音楽家への過渡期といえ、特定の組織に雇われる形ではなく、フリーで活躍する音楽家も出てきた。誰かのためではなく「自らの」気持ちを音楽で表すというロマン期の思想とも一致する。

音楽家自身は雇われの身で無くなったことで得た自由と引き替えに、経済的な裏付けもなくなったことで、マネージメントなども含めて自ら動く必要があり、その頃のAllgemeine Musik Zeitung(一般音楽新聞)に載った記事には以下のようにある。「芸術家は旅行鞄一杯に紹介状を携えて、数週間、朝から晩まで人のご機嫌をとり、毎日違った家で演奏して聞かせなければならない。彼のあらゆる努力や才能、多くのお世辞の報酬として、ほとんど彼の滞在に要した程度しか手に残らないのである。」

これは自らのコンサートを開催するために有力者の家に行ってそのコンサートのチケットの販売の協力を依頼する音楽家の姿である。労力に比べてなかなか経済的には実りの少ない困難な状況がうかがえる。

この時代において芸術家が「自ら」の音楽を創造するという意味で音楽の実用性(公的性)が弱まってきたと考えられる。その音楽を受け取る側にとっては高尚な趣味ではあれ、娯楽の一部との傾向が強くなる。結果として音楽家を雇うのではなく、パトロンなどとしてサポートすることとなる。音楽の娯楽的傾向の割合が大きくなった時代である。

地位の向上=文化的側面の増大

資本主義が発展するにつれて、市民階級が経済力を持つようになり音楽会に足を運ぶ聴衆も、音楽を学ぶ人間も飛躍的に増えた時代。フリーで活動する音楽家は集まることによってサポートを得て自らの地位の向上を図った。

例えばピアニストでは、ショパンやリストなどサロンの寵児となる特殊な例はあれど、フリーの音楽家を取り巻く厳しい環境が大きく改善されることはなかった。一人すべて行う活動はやはり限界があり、マネージメントを担当する会社が出来たり、徐々に組合のような組織が出来てくることになる。ウィーンの「寡婦と孤児のための演奏協会」などは、音楽家自身が互いにサポートするために設立された。1835年にメンデルスゾーンがカペルマイスターの時代、ゲヴァントハウス管弦楽団では楽員の年金制度まで整備された。1842年に誕生したと言われているウィーンフィルなどの楽団もある意味では組合とも言え、組織立てることによってコンサートの企画を容易にし、国からなど大きな公的なサポートも得やすくなったことであろう。楽団に入れば音楽家にとっては固定収入が得られるので経済的には楽になったはずである。

この時代、音楽は娯楽としての側面は持ちつつも、徐々に文化的側面が加わってくる。これには時代背景も大きく関係し、音楽史的に言えば、国民楽派の台頭はそれぞれの国の音楽的アイデンティティを確保する意味があり、引いては自らの国の「文化」として音楽を創造する意思があったと言える。結果的に自国の文化を保護するという流れが出来てきて、そこで音楽家が集まって文化として押し出すことで、「文化を保護する」という崇高な名目での公的なサポートが得やすくなったと言える。

現在のクラシック音楽

以上、歴史の流れを実用的音楽、娯楽的音楽、文化的音楽と見てきたが、私たちが生きる現在の状況はどのようなものであろうか。

クラシック音楽は長い歴史があり、音楽大学など系統だった学習体系もあることからやはり文化的側面の強い音楽ジャンルと考えられる。そうなるとやはり強い経済的基盤を持った組織にサポートされる存在であり、音楽家自ら仕事で大きく稼ぐという位置づけにはなりにくい。昔とは違うのは文化を保護するという名目で音楽家をサポートする存在として国だけではなく、企業も加わっていることである。企業が社会的役割を果たすことを求められる最近の風潮も文化の保護に大きな役割を果たしている。

クラシックのコンサートの公演というものはこの文化的側面と娯楽的側面が混在したものであり、チケットを買って足を運ぶ方は文化的なクラシック音楽を楽しんでいる(娯楽)といえる。

またこの文化的であるということは、教育の面においても重要視される点であり、学校の教科書にクラシックの音楽が多く紹介されていることからも、子供たちの精神的な発達に寄与すると考えられていることが窺える。

クラシックを純粋に商業的視点から考えてみると、アーティストとしての地位を確立し、その芸術性や独自性が高い評価を得て成功するというのがイメージされるが、過去の曲を演奏しているという事実から、やはり個々の演奏者による違いはあれど、その独自性などが一般に広く認知されるとは言い難い。私自身はもちろん演奏家の違いを楽しみながら聴くのではあるし、そこが面白いと感じているが。

そして実用的側面はどうであろうか。クラシック音楽が必要とされて使われる場所としては冠婚葬祭、映像の中、BGMなどが考えられる。実用的という意味は前述したように「効果」があるということである。その時、その場所で音楽を聴くことにより雰囲気を作ったり、映像の効果を高めたりする。コンサートも「心を癒やす」と考えれば実用的と言えなくも無いが、やはり娯楽的傾向が強いと感じる。

クラシック音楽の仕事とこれから

ここで始めの、クラシック音楽の演奏家としてそれを仕事として行くにはどう工夫するべきかという問題に立ち戻る。

見てきた様にコンサートを行い収益を得るというのは今も昔も難しい。公的であれ私的であれサポートが必要な性格のものである。2世紀前と比べればサポートも得やすいのであろうし、そもそも支えがあるということは非常にありがたいことであるが、コンサート開催をずっとサポートに頼るというのもどうなのかと思う気持ちも大きい。需要も多いとは言えず、音大で音楽を真剣に学び、オーケストラに入ろうとしても1つのポストに50人の応募はある状況である。また団員の収入にしても社会平均と比べて特別なものではなく、しかもこれも国や自治体からの助成金などを加味している。フリーの演奏家は安定はしておらず、大きなコンサートなど自らの力だけで企画しようとすれば、上記19世紀の新聞記事と大して変わらない状況かもしれない。

片や、文化的な性格が強いということでは教育的な観点からは強みがある。音楽を学ぶ子供は多いし、大人でピアノやヴァイオリンを習う方も増えている様に感じる。音楽教育が仕事にしやすいというのは、音楽教室が各地にあり、昨今はビジネス的なコンクールまでもが乱立していることからも判断できるところである。世の中全体として、「物から事へ」の様な流れもあり、この範囲を工夫しながら進めていくことは音楽を仕事にする上で理にかなっている様に感じる。

商業的にはクラシックは上述のように難しいので、次に考えるのは実用的側面である。ここは文字通り実用なので一番仕事にしやすそうに思う。

昨今はネット社会と言われ、コンピュータが普及し始めた頃から、歴史の中でも最も大きな変化が起こっていることは論を待たない。昨年のコロナ禍ではネットでコンサートの告知動画を作る試みを行いその経緯を本誌にも寄稿した。映像はやはり人に希求する力が強く、以前と比べ大分手軽に作れるようになっていることもあり、需要は大きい。ここに音楽を結びつけるというのは可能性として良いと思う。ただそれがクラシックである必要があるのかどうかは考える余地があるが、演奏家としてはクラシックに限らず効果的な音楽を映像に付け加えることで音楽の実用的価値を発揮することが可能であろう。

私の中には、サポートされるだけではなく、自立した音楽家となりたいという気持ちがある。そのために以上の様な考察をした訳であるが、やはりクラシックに限って言えば演奏するということは研究的な要素も大きく(上記で言えば文化的側面)完全に自立するための仕事としては中々難しい。そうは言っても私自身は毎年新しいプログラムでのコンサートをライフワークの様に行っておりそれは続けていきたい。

コロナもあり大きな変化がある中ではあるが、その時の社会に合わせて様々な創意工夫を重ね、社会の問題を解決することが仕事になるということはいつの時代も変わらない。音楽が活躍できる場所を求めて考えを巡らせながら進んでいきたいと思う。

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